糖尿病治療と糖尿病性網膜症との関係における法律的問題
I 問題の所在

 今回は内科医の糖尿病治療と糖尿病性網膜症との関係における法律的問題点を考えてみる。内科医が主役となるが、網膜症の悪化につながるとの意味で眼科医にも 大いに関係があると考え、今回取り上げた。問題点は大きく2つに分かれる。

 一つは、糖尿病治療に熱心でない内科医が引き起こす問題であり、もう一つは、糖尿病治療に熱心な内科医(多くは糖尿病専門医)の引き起こす問題である。

II 尿病治療に熱心でない内科医の引き起こす問題

 適当な判決があるので紹介する(浦和地裁、平成10年7月17日判決)。Xは、糖尿病治療のため、内科医であるYの開業する医院に通院を開始した。Yは糖尿病治療の基本となる食事療法・運動療法の指導を怠り、漫然と経口血糖降下剤の投与のみを続け、インスリン療法の検討すらも行わなかった。また、初診時に眼底検査を行わず、約2年間の治療中、初診時から約1年後に1度だけ眼底検査を実施したのみで、眼科医への受診指導も行わなかった。初診より2年後、Xが「目のかすみ」を訴えたことを契機に眼科医を受診するが、糖尿病性網膜症は増殖期になっており、網膜光凝固療法を受けたが視力は低下し、右0.01(n.C.)、左0.02(n.C)となった。

 この判決では、X側の糖尿病治療への不熱心さなども考慮され、請求は認められず、慰謝料のみが認められた。

 しかし、現在の時点でも、このような糖尿病治療に熱心でない内科医が存在し、ただ患者を抱え込み眼科医にも診せない例がまだまだ多いと考えられる。眼科医は、地域における内科医と協力体制を構築し、糖尿病治療開始の時点から眼科医へ送ってもらうよう働きかけることが、このような悲劇を避け、また訴訟を起こさないようにする有効な方法であると考える。

V 糖尿病治療に熱心な内科医(多くは糖尿病専門医)の引き起こす問題

これから紹介する事例は、IDDMの若い男性の患者さんが、ある時期からインスリンを含む治療を開始したところ、HbA1C値は改善したものの、増殖性網膜症から牽引性網膜剥離になり、眼科的治療にも関わらず、視力の著しい低下を招いた事例である。この網膜症悪化について、患者さん側は、糖尿病内科医の治療に責任があるとして訴訟を考えているのであるが、この点を法律的にまた医学的にどう考えていくべきかというのが、ここでの問題点である。

 1)事例の詳細:昭和60年(1985年)18歳:IDDM発症。食事コントロ−ル不良。平成4年(1992年)24歳:血糖値(以下BS)は高く(300〜600mg/dl),HbA1C10〜14%(正常6%以下)。眼底SCott0(網膜症なし)。食事療法を守れず、インシュリンも打ったり打たなかったり。治療の中断がしばしばあり。血糖コントロ−ルも不良。

 平成6年(1994年)26歳:網膜症、両眼SCott0。
 平成7年(1995年)27歳、2月27日:網膜症、右SCottUa(点状出血)、左SCottVa(大型の斑状出血、滲出斑ー前増殖期)。視力右1.0(n.C)、左0.8(0.9)。
  5月再教育目的で入院。BS345mg/dl、HbA1C12.8%。インシュリン開始。低血糖と高血糖の繰り返し。
  5月15日:右、新生血管出現、左硝子体出血。SCottVa〜W(大型の斑状出血、滲出斑ー前増殖期、硝子体出血ー増殖期)。視力右0.7(1.0)、左0.4(0.7)。
  6月27日:新生血管に対して網膜光凝固開始。7月7日:左、アーケード内出血。
  8月4日:HbA1C7.9%。8月21日:左、硝子体出血、黄斑浮腫。
  9月2日:左、牽引性の網膜剥離。
  10月31日:左眼1度目の手術、増殖性硝子体網膜症切除術、網膜剥離手術。
  11月6日:視力、左、手動弁。シリコンオイル下の出血(黄斑部)。
  11月14日:退院。視力右0.6(0.9)、左0.01(n.C.)。
  12月27日:右、硝子体出血、増殖組織。
  平成8年(1996年)28歳、
  2月21日:視力、右0.01(n.C.),左0.02(n.C.)。右、増殖組織、左、黄斑症。
  平成8年(1996年)11月16日:他眼科初診。右増殖膜発生、牽引性網膜剥離。
  平成9年(1997年)29歳、
  1月16日:右眼1度目の手術、硝子体切除術、gas tanponade。
  1月25日:右眼、硝子体出血、視力、光覚弁。
  1月30日:右眼、2度目の手術、硝子体切除術、網膜裂孔に対して眼内レーザー,SF6 gas tanponade。2月9日:右眼、硝子体出血、増殖性網膜症、網膜剥離。
  2月19日:右眼3度目の手術、水晶体切除、硝子体切除、増殖物切除、gas tanponade。
  5月26日:視力、右0.02(n.C)、左0.01(n.C.)。

 2)糖尿病性網膜症はなぜ急激に悪化したか。
 糖尿病網膜症は、長期的に見れば、血糖値、HbA1C値に比例して悪化してゆく。合併症を防ぐためにも、血糖値、HbA1C値を下げることが糖尿病治療の基本であるのはもちろんである。しかし、長期間放置された糖尿病患者で、特に若年症例に於いては、急激な血糖コントロ−ルを行うと、網膜症が悪化するケースが多数報告されている。網膜症がほとんどなかった症例が半年以内に増殖性網膜症になった例も報告されている1)、2)。

 症例報告は多数あるが、多変量解析を行った報告3)があるので引用する。

「1血糖コントロールが不良(HbA1C値が9.0%以上)、2血糖コントロール不良期間が長い(3年以上)、3糖尿病罹病期間が長い(10年以上)、4内科的治療法としてインスリン治療を要する、5前増殖網膜症または増殖網膜症を有している、6単純網膜症であるが網膜症の活動性が高い、このような背景を2つ以上有している症例に対しては短期間(6ヶ月以内)に急激な血糖是正(HbA1C値で3.0%以上)を行うことは避けるべきであると考えられる。」との内容である。即ち、月平均HbA1C値0.5%の改善が限度ということになる。

 本件事例は、1,2,4,5を満たしているから、糖尿病内科医は急激な血糖値改善を避け、もう少し緩やかな血糖値改善を選択すべきだったことになる(当事例は平成7年5月HbA1C12.8%、同8月7.9%で、月平均1.6%の改善をしている)。

 このように、罹病期間が長く、前増殖網膜症や増殖網膜症を有し、長期間無治療またはコントロ−ル不良例に、インシュリンにて血糖値を急激に改善させると網膜症の増悪を見る例が多いことが判明した。その理由はA.凝固線溶系の変化、B.赤血球の酸素解離能の低下、C.血行動態の変化、D.インスリンの血管内皮細胞の増殖作用、E.低血糖などが考えられる4)。

 3)糖尿病内科医と眼科医はどう対処すればよいか。

急激な糖尿病治療による網膜症の悪化のことを「糖尿病治療後網膜症」と表現する場合がある。大半の症例では、網膜症の悪化は一過性で光凝固等により軽快する例も多いのは事実である。しかし、少ないとは言え網膜浮腫が強く、視神経乳頭から新生血管を生じ、硝子体出血、黄班浮腫、牽引性網膜剥離等に至るような悪性のタイプが存在するのも確かな事実である。本事例も、この悪性のタイプに当たる。

 悪性のタイプがわずかながらあるとの理由で、糖尿病内科医が血糖コントロ−ルの手をゆるめるというのは確かに問題がある。この解決は、治療前から治療後に至るまでの、眼科医と糖尿病内科医との緊密な連携しかないと考える。

 具体的には、まず治療開始をする前に、網膜症の評価を眼科医に必ず依頼する。網膜症無しか、軽度の単純性網膜症であれば、通常考えられる速度で血糖コントロ−ルをすることにしても良いが、少なくとも月2回程度(可能ならば週1回でも良い)眼底検査を行い、増殖性網膜症に変化するようであれば、血糖コントロ−ルの速度を落とし、眼科医の網膜症治療を優先させる。

 前増殖性網膜症や増殖性網膜症があることが治療前に明らかであれば(しかも前述の危険因子がある場合は特に)最初から血糖コントロ−ルの速度を、前述のように6ヶ月でHbA1C値3.0%以下に抑えて治療するのが妥当で、しかも頻回の眼底検査、網膜症の評価をする必要があるのはもちろんである。

 将来的には、糖尿病学会と眼科学会(あるいは糖尿病眼科学会)の共同プロジェクトとして「糖尿病治療後網膜症」に関するprospeCtiVe studyを行う必要があると考える。

 4)では最後に、本件事例のような場合に民事の損害賠償訴訟が起きたとして、糖尿病内科医につき、網膜症悪化について血糖コントロ−ル治療の過失が認められるかどうか、検討したい。

「糖尿病急激改善による網膜症悪化」につき、糖尿病内科医の治療法が過失と認められるためには、急激な血糖コントロ−ルが網膜症を悪化させるとの知識(6ヶ月にHbA1C値3.0%以下などと具体的なものである必要がある)が、治療時点での「医療水準」と認められなくてはならない。

 従来の「医療水準」に関する最高裁判決は、「診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準」との表現をしている(未熟児網膜症に光凝固を行わなかったことに関する高山日赤事件、最高裁昭和57年3月30日判決)。この判決によれば、多くの医師が一般的に行っている治療法に従えば「医療水準」を満たし、過失は問われないことになる。

 しかし、最高裁判決は変わり(未熟児網膜症姫路日赤事件、最高裁平成7年6月9日判決)医療水準は全国一律であるという従来の解釈が否定された。医療水準について、「当該医療機関の性格、所在地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮すべきであり、・・、すべての医療機関について診療契約に基づき要求される医療水準を一律に解するのは相当でない」とし、姫路赤十字病院の過失責任を認めた。診療に当たった姫路赤十字病院は、当該未熟児入院の時点で、光凝固療法の存在を知っていた小児科医師が中心となって、眼科との連携体制をすでに取っていた。そのため、一般的病院よりも高いレベルの診療が行われていて当然だと認定されたわけである。地域の中核病院は、より高い医療水準を満たさなければならないことが明示された事になる。

 さらに、別の最高裁判決(ペルカミンS事件、最高裁平成8年1月23日判決)はこう述べる。「医療水準は、医師の注意義務の基準(規範)となるものであるから、平均的医師が現に行っている医療慣行とは必ずしも一致するものでなく、医師が医療慣行に従った医療行為を行ったからといって、医療水準に従った注意義務を尽くしたと直ちにいうことはできない。」 平均的医師が現に行っている医療慣行が「医療水準」とは言えないことを明示したものとして画期的判決である。これにより、常に医師は現状に留まることなく、新知識を求めて研鑽を深める義務があることになる(以上「医療水準」については本誌2001年2月号参照)。

 さて、そこで「糖尿病血糖値急激改善による網膜症急速悪化」に関する知識が、現在の「医療水準」となっているか検討してみる。 現在の糖尿病学会や論文において 、「糖尿病急激改善による網膜症悪化」は大きな話題になっていないし、こうした知見が糖尿病内科医の半数以上には知られていない(私の推測であるが)ことを考えると、「現時点でのいわゆる臨床医学の実践における医療水準」とは言えないかもしれない。

 しかし、その後の最高裁判決の流れを考えると、地域の中核病院は、より高い医療水準を満たさなければならないはずであり、また現在の医療慣行に応じて治療することが必ずしも「医療水準」とは言えず、常に医師は現状に留まることなく、新知識を求めて研鑽を深める義務がある ことになる。そうであれば、現在の時点でも、特に地域中核病院以上の病院において、「網膜症急激悪化」を招いた糖尿病内科医の「急激血糖コントロ−ル」が過失とされることはあり得ると思う。

 ともかく、この論稿を含め、いくつもの「網膜症悪化」の論文が雑誌に出され、更に糖尿病学会と眼科学会との共同研究などが進めば、未熟児網膜症に対する光凝固がそうであったように、やがて血糖コントロ−ルと網膜症悪化に関する「医療水準」も変わっていくのは当然と思われる。

 そうした意味で、この論稿が多くの糖尿病内科医の目にも触れ、医療水準改善の一助になればよいと思っている。

文献
1菊池三季 他:糖尿病網膜症出現後6カ月以内に増殖型にまで進行した3例. 眼科 34:173〜180、1992.
2井上幸次 他:急速に網膜症の悪化したNIDDMの1症例. 大阪警察病院医学雑誌
 12:153〜159、1988.
3船津英陽:血糖コントロールの指標から見た網膜症. 眼科 36:765〜779、1994.

4森田千尋 他:急激な血糖コントロールの網膜症に及ぼす影響ー内科の立場よりー. Diabetes Journal、20:7〜12、1992.