「医療事故の根絶ををめざして」(「季刊ぐんま」2002年9月号掲載) <1>私にとっての「ぐんま」: プロフィールに述べたように、私は18歳までの少年時代、青春時代を前橋で過ごした。 卒業した各学校の校歌の「あーかぎやまー」、「あかーぎおろしーに」とあるように、毎日 赤城山を眺めながら、赤城颪に吹かれながら登校した日々を思い出す。時々父母の元に帰 橋するとき、実際は「新幹線」で帰るのであるが、心は前高の先輩の「萩原朔太郎」で、 「わが故郷に帰れる日、汽車は烈風の中を突きゆけり、まだ上州の山は見えずや」と、車 窓から眺めることが常である。  やはり、「ぐんま」は単なる「父母が今でも住んでいるところ」だけではなく、「私の性 格形成の根本に関わる何かを与えてくれたところ」であるような気がする。 <2>私が何故複雑な進路を歩んだか: 前橋高校で進路を考えていた私は、「法を通じて社会正義を実現したい」と考え、1971 年東京大学法学部に入学した。当時、東大紛争の名残も生々しい本郷キャンパスに入り、 憲法の権威、故芦部信喜先生のゼミに参加し日本国憲法の研究を始めた。私が憲法を勉強 してゆく中で一番印象に残ったのは憲法第13条であった。憲法第13条「すべて国民は、 個人として尊重される。生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利については、公共 の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする。」憲法13条は 生命が尊重されるべきこと、国政の上でも最大の尊重をすべきことを謳っている。  同時にそのころ、私は民法の教授にについて「医療訴訟の法律的側面」の研究も始めて いた。憲法の勉強、医療事故・医療訴訟の勉強を進めていく中で、医療事故を根絶し医療 の上で生命の尊重を最大限に貫いてゆくためには、憲法第13条に代表される法律の知識 と医学の知識の双方が必要ではないかと考えるようになった。法学部を卒業できる頃とな って、私は医学部受験を志し、1978年東北大学医学部に入学した。  「杜の都」仙台での生活は、私にとっては「アルト・ハイデルベルク」であり、いまま で勉強に熱中して、青春らしいこともなく過ごした日々を一変させ、遅いながらもよい青 春時代を送ることができた。そうした中で法医学助教授押田茂實先生(現日本大学医学部 法医学教授)との出会いは貴重であった。先生は犯罪捜査の法医解剖だけを行う法医学者 ではなく、医療事故・医療訴訟の分析を通じて医療事故を予防してゆく立場のまだ数少な い法医学者であった。先生から「医療訴訟の医学的かつ法律的側面の研究」の指導を受け た。研究を進めてゆく中で、卒業後は臨床医として「現実の診療技術を向上させながら」 同時に医療事故・医療訴訟の分析や弁護士に対するアドバイスを行うことが最も医療事故 根絶に役に立つし、説得力もあると考えるようになった。 <3>医療事故根絶への活動の開始: 1984年東北大学医学部を卒業し、医師国家試験に合格後、東京大学医学部眼科学教室 に入局した。眼科学を選んだのは、脳神経(脳から直接出る末梢神経)12本のうち4本 が眼に関係しており、眼に対する脳の関わりが非常に強いこと。また、人間の情報は眼か ら80%以上入るわけであるから、逆に眼の障害(特に失明)は人間にとってQOL (quority of lifeー人生の質)を極めて低下させる。そうした非常に重要な器官としての 眼を扱える医者になることは意味があると考えたからである。更に言えば、眼における医 療事故を防ぎ、無用な失明を防止することは、人々の憲法第13条「生命、幸福追求権」 の実現に極めて役に立つと考えたからである。  とにかく最初は「眼科の臨床的診断力・治療力」を上げないといけないと言うことで、 東大医局で2年間、武蔵野赤十字病院で4年間臨床と研究に励んだ。臨床的には「ぶどう 膜炎ー眼の炎症」や「糖尿病性網膜症」の治療に重点を置いた。研究の方は「マウスの実 験的ぶどう膜炎モデル」を世界で初めて確立したことで、1991年東京大学から「医学 博士」を授与された。  眼科の臨床的実力が付いたところで、法学部同窓の弁護士たちの推薦もあり、「医療問題 弁護団(東京)」と「医療事故情報センター(名古屋)」に所属し、全国から集まってくる 眼科関係の医療事故について医師の過失があるかどうかに関して、弁護士に「医学的かつ 法律的側面」のアドバイスをしている。この医療事故・医療訴訟の分析を通じて、過失を おかした医師を責めることよりも、今後の医療事故を根絶してゆくことが目的である。 このことはまず患者さんのためでもあるが、結局は眼科専門医の利益として跳ね返ってく ると考えている。 <4>具体的事例をもとに私の活動内容を示してみたい: ここで述べるのは「内科医の糖尿病治療と(眼科医の)糖尿病性網膜症治療との関係にお ける法律的問題」である。 (1)糖尿病治療に熱心でない内科医の問題点:糖尿病が眼の合併症(糖尿病性網膜症)を引 き起こし結局失明に至る(成人の後天的失明原因のトップは糖尿病性網膜症である)こと は、最近では一般人の間でも常識になりつつある。しかし、現在でも、糖尿病治療に熱心 でない内科医が存在し、インスリンも使わず、経口糖尿病薬を適当に(あまり血糖値を厳 格に下げることもなく)使用し、しかも眼科医に10年近く見せることもないことがある。  やがて、眼の症状が出て10年目に突然眼科医を初診するのであるが、そのときは眼科的 に「糖尿病性網膜症」が進行していたり、「血管新生緑内障ー虹彩に新生血管が発生し、治 療が殆ど不可能な緑内障」が生じていたりする。初診時ではまだ視力がある場合があるが、 網膜光凝固や硝子体手術を進めていくうちに急激に視力が低下し殆ど失明状態になること が多い。患者さんはその場合眼科医を訴える場合が多いのであるが、眼科医はやるべき治 療をきちんと行っているのが普通で、本当の責任は10年間不十分な糖尿病治療を行ない 眼科医に送らなかった内科医にこそある場合が多い。糖尿病患者に対する教育、内科医に 対する地域における啓蒙活動が必要になる。 (2)糖尿病治療に熱心な内科医(多くは糖尿病専門医)の引き起こす問題:しかし、糖尿病 治療に熱心で専門的知識のある糖尿病専門医でも問題を起こすことがある。糖尿病の治療 の視標としてよく用いられる検査にHbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)値と言うものが ある。赤血球中の糖分を計るので、1月間ぐらいの血糖値をよく反映する。正常人で5.8% 以下、糖尿病患者で治療目標が6.5%以下とされる。  糖尿病の治療に当たり、このHbA1c値をあまりに急激に低下させると、かえって「糖尿 病性網膜症」を悪化させ、極端な場合「失明」に至る場合がかなり報告されている。これ を「糖尿病治療後網膜症」と言う。この「 糖尿病治療後網膜症」を防ぐためには以下のよ うな報告がある。  「1)血糖コントロールが不良(HbA1c値が90%以上)、2)血糖コントロール不良 期間が長い(3年以上)、3)糖尿病罹病期間が長い(10年以上)、4)内科的治療法と してインスリン治療を要する、5)前増殖網膜症または増殖網膜症を有している、6)単 純網膜症であるが網膜症の活動性が高い、このような背景を2つ以上有している症例に対 しては短期間(6ヶ月以内)に急激な血糖是正(HbA1c値で30%以上)を行うことは 避けるべきであると考えられる。」との内容である。即ち、月平均HbA1c値05%の改善 が限度ということになる。  実際の事例を見ると、18歳時に糖尿病を発症した男性が、27歳時まで殆ど糖尿病治 療をしない生活を送り、そのとき血糖値345mg/dl(正常110mg/dl以下)、HbA1c 値128%であった。27歳時に網膜症が発症したため(斑状出血などまだ初期)入院 となり、糖尿病専門医はインスリン投与し3ヶ月間でHbA1c値が79%となった。その 後両眼、硝子体出血、黄斑浮腫、牽引性網膜剥離となり、網膜光凝固、硝子体手術を行っ たが、結局両眼失明した。この事例を見ると前記1)、2)、4)、5)を満たしており月0 5%のHbA1c値低下とすべきところ、実際には月16%の低下をしている。HbA1c値急 激低下による「糖尿病治療後網膜症」による失明と言ってよい。  この事例でも、患者さんの生活にも問題があり、内科医の治療法にも問題がある。眼科 医として糖尿病網膜症治療に熱心に取り組むことは重要であるが、患者さんへの教育、糖 尿病専門医への眼科医からの働きかけが重要で、それにより医療事故が防止でき、失明が 予防できると考える。 <5>おわりに: 今後も、法学部、医学部双方のキャリアを生かし、医療事故の根絶に力を尽くしたいと思 っている。  プロフィール 1952年前橋市に生まれる。 群馬大学附属小学校、附属中学校、県立前橋高等学校を卒業。 1971年東京大学文科1類(法学専攻)入学、1977年東京大学法学部私法学科卒業。 1978年東北大学医学部入学、1984年東北大学医学部卒業。 1984年医師国家試験合格、東京大学医学部眼科学教室入局。 1986年武蔵野赤十字病院医員。 1990年総合川崎中央病院眼科部長。 1991年東京大学よりぶどう膜炎(目の炎症)の研究につき「医学博士」を授与される。 1992年東京都立川市で「岩瀬眼科医院」を開業、現在に至る。 2002年禁煙推進医師連盟運営委員。