眼科医のための「医療過誤訴訟」入門                      「医療水準」について 医学博士  岩瀬光 (1)「医療水準」とは何か:  医療過誤訴訟で問題となるのは、訴訟を受けている医療側が診察・治療に関する注意義 務を十分はたしていたかである。裁判所がそれを判断するための「基準」となるのが「医 療水準」である。  即ち、裁判所が問題の医療行為について「医療水準に満たない」と判断すれば、注意義 務違反による過失があることになる。そして、医療水準以下の医療行為が原因で事故が起 こったなら、責任が医療側にあると認められ賠償責任が発生することになる。従って、こ こで「医療水準」を裁判所がどのように考えているかが問題となる。 (2)従来の「医療水準」に関する最高裁判決:  1「輸血梅毒事件ー最高裁昭和36年2月16日判決」では、「医業に従事するものは、 危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求される」と述べている。  2また「未熟児網膜症高山日赤事件ー最高裁昭和57年3月30日判決」では、「注意 義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であ る。」と述べている。  これらの判決の趣旨から考えると、問題の医療行為が「診療当時の臨床医学の実践」の 中に収まっていれば、医療水準をそれ以上求められないことになる。このため、医師のさ らなる自己研鑽や、自分の医療技術を越える患者を治療可能な医療機関に転医させるとい った積極的、自発的行動が促進されにくい傾向があった。この流れを変えたのが、以下の 2つの最高裁判決である。 (3)新しい「医療水準」を示す最高裁判決1:「未熟児網膜症姫路日赤事件ー最高裁平成7 年6月9日判決」:  1事実の概要:Xは昭和49年12月に在胎31週、出生体重1508グラムの未熟児 として出生した。Xを診察した姫路赤十字病院は未熟児網膜症を早期に発見できず、光凝 固も実施しなかった結果、Xの視力が006になった。この点に関して、医療側に過失 があるか問われたが、高裁段階では、未熟児網膜症に対する光凝固療法に関して、厚生省 特別研究班報告(「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究報告」)が公表され たのが昭和50年8月だったため、診療が行われた昭和49年12月には(光凝固治療を 行うことは)医療水準として確立していたとは言えず、過失はないとされた。  2最高裁の判決の内容:最高裁の判決では、医療水準は全国一律であるという従来の解 釈が否定された。医療水準について、「当該医療機関の性格、所在地域の医療環境の特性 等の諸般の事情を考慮すべきであり、・・、すべての医療機関について診療契約に基づき 要求される医療水準を一律に解するのは相当でない」とし、姫路赤十字病院の過失責任を 認めた。  また更に、「予算上の制約等の事情によりその(光凝固治療の)実施のための技術・設 備等を有しない場合」には「これを有する他の医療機関に転医させるなど適切な措置を採 るべき義務がある」と述べた。即ち、医療機関の満たすべき医療水準の中に、「適切な医 療機関へ転医させる義務」も含まれることを示した。  3解説:診療に当たった姫路赤十字病院は、昭和49年12月の時点で、光凝固療法の 存在を知っていた小児科医師が中心となって、眼科との連携体制を取っていた。そのため、 一般的病院よりも高いレベルの診療が行われていて当然だと認定されたわけである。地域 の中核病院は、より高い医療水準を満たさなければならないことが明示された事になる。  また、医療水準の中に、「適切な医療機関へ転医させる義務」も含まれることを示した ことも重要である。 (4)新しい「医療水準」を示す最高裁判決2:「ペルカミンS事件ー最高裁平成8年1月2 3日判決」  1事実の概要:麻酔剤ペルカミンSの添付文書に、注入後10〜15分間は2分ごとに 血圧測定をすべきだと記載されていたにもかかわらず、当時の医療慣行として一般的に行 われていた5分間隔の測定をした結果、患者に重篤な後遺障害を与えたことが、医療側の 過失になるかどうかが問われた。  2最高裁判決の内容:「医療水準は、医師の注意義務の基準(規範)となるものである から、平均的医師が現に行っている医療慣行とは必ずしも一致するものでなく、医師が医 療慣行に従った医療行為を行ったからといって、医療水準に従った注意義務を尽くしたと 直ちにいうことはできない。」  「医師が医薬品を使用するに当たって文書(医薬品の添付文書)に記載された使用上の 注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合には、これに従わなかったこと につき特段の合理的理由がない限り、当該医師の過失が推定されるというべきものであ る。」  3解説:平均的医師が現に行っている医療慣行が「医療水準」とは言えないことを明示 したものとして画期的判決である。これにより、常に医師は現状に留まることなく、新知 識を求めて研鑽を深める義務があることになる。また、「添付文書」を読むことの重要性 が示されたと言える。 (5)次に、眼科関係の判例「非裂孔性・非炎症性網膜剥離(多発性後極部網膜色素上皮症) 失明事件」(横浜地裁昭和61年7月14日判決) で、具体的に考えてみたい。  1事実の概要:Xは昭和47年2月頃、右目がかすんで異常を覚えたので、総合病院を受 診した。眼科部長YはXの右眼に網膜裂孔は見あたらなかったものの、当時の医学知見か ら裂孔原性網膜剥離であるか、または原田病による続発性網膜剥離のいずれかであると考 え、蛍光眼底撮影の検査結果をふまえ、結局は裂孔原性網膜剥離と診断した。そこで、2 度にわたり、強膜を穿孔して排液し、スケペンス式バックリング手術、硝子体置換術、光 凝固等を実施したが、裂孔は発見されず、右眼網膜は全剥離となった。左眼もやがて同様 の経過をとった。Xの視力は、右眼0、左眼003となり後天性色覚異常となった。   2判決の概要:本疾患は「多発性後極部網膜色素上皮症」と考えられる。この疾患につ いては本件診療当時(昭和47年2月)、少数の症例報告・発表があったとはいえ、いま だ非裂孔性・非炎症性の高度網膜剥離疾患の存在が、眼科学会や眼科医の間で認識される に至ったものということはできず、当時は数人の研究者が上記新しい病型の疾患について 調査研究を重ねていた時期であるというべきである。しかも、その治療法についても、光 凝固が有効である(侵襲の大きいバックリング手術をせず、蛍光漏出部位に対する光凝固 を行うのが有効との学説)ことが指摘、報告されたのは昭和48年以降のことである。  従って、Yの診察治療は、当時の医療の水準とその内容をかんがみて相当であり、医療 行為上の過失はない。  3解説:この判決当時の医療水準に関する指導判決は、前記した「最高裁昭和57年3 月30日判決」で、「注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の 実践における医療水準である。」と述べている。  この基準に則って考えれば、この横浜地裁判決の言う「昭和47年2月の時点では、非 裂孔性・非炎症性の高度網膜剥離疾患の存在を認識し、手術療法をせず光凝固による治療 を優先する事は未だ医療水準にはなっていない。」と考えるのは妥当であろう。  この判決は、「未熟児網膜症姫路日赤事件、平成7年6月9日判決」の前のものである が、前記した未熟児網膜症判決の趣旨ー地域の中核病院はより高い医療水準を満たさなけ ればならないーを適用しても、昭和47年当時のこの総合病院の「非裂孔性・非炎症性網 膜剥離」に対する責任を問うことは困難であろう。 しかし、その後この疾患の情報、治療法についての知識が広まれば医療水準も変わり、 同様な症例が現れたとき、光凝固等の適切な対応がなければ医師の責任が問われるのは当 然である。 (6)では、眼科専門医は、新しい「医療水準」をいかにクリアしていくか:  1基本的な考え方:新しい医療水準も、すべての医師に最先端のレベルを要求している のではない。日々研鑽を怠らないことで獲得可能な水準を満たしていけば良いのではない かと考える。  2新規治療法についての対応:Aその新規治療法が既に海外で一定の臨床的評価を得て おり、B日本でも相当数の先駆的導入者が良好な成績を報告しており、C年々採用者が増 えていて全国的な普及過程にあることが明らかであり、D厚生省も統一的適応基準作成の ための研究班を組織したーというような新しい治療法の場合には、開業医はともかく地域 の基幹病院の当該診療科の医師にとっては医療水準と言えるのではないか。(古川俊治、 「メディカルクオリティ・アシュアランス」医学書院より引用)その医師たちは、新しい 治療法について研鑽してゆく義務があることになる。  3研鑽の具体的内容:厚生省が出す情報(研究班報告書、薬の副作用情報)、学会など による診療ガイドライン、薬剤の添付文書、代表的な教科書、主要医学雑誌、専門領域で の学会情報などを定期的にチェックして、常に知識を新鮮なものにするのが大事である。  4添付文書:特に薬剤の添付文書は「ペルカミンS事件最高裁判決」がある以上重要で、 日頃使用する薬剤の添付文書はまとめてファイルし、必要な時にいつでも参照できるよう にしておくことが求められる。薬剤師等との協力で整備するのが望ましい。  5他院への転医義務:情報として新しい治療法が存在することが分かっていても、設備 等の関係で自らは新しい治療法を実施できないのであれば、新しい治療法を実施している 医療機関に転医を促す義務も存在する。  6診療録への適切な記載:自分の行った医療行為の正確な記載、患者さんへの説明の内 容、その病気の治療法について得ている情報内容、転医を含めた治療計画、予想される副 作用や合併症等を正確に記載することが、自らの頭の整理にもなり、自分の身を守ること になる。